寿のまち
ここでは、横浜市中区役所福祉部保護課発行『寿のまち〜寿地区の状況〜』(平成7年3月初版、平成11年3月改訂)より、抜粋して寿の現在の姿を紹介します。
1.寿のまち・寿地区の現状
(1) 寿地区の形成
大阪のあいりん地区、東京の山谷地区とともに、大都市における簡易宿泊所密集地区(以下「簡宿街」という)の一つとして数えられている横浜の簡宿街は、横浜市の中心地である中区にあって、一般に「寿」と呼ばれています。この「寿」(以下「寿地区」という)は、ちょうど横浜スタジアムから見て、JR根岸線を挟んだ反対側の関内駅から徒歩1O分、石川駅から徒歩で5分ほどの地にあります。中区の寿町、松影町、扇町、三吉町、長者町の各町一部からなる約250m四方、面積0.06平方Kmの狭い地域ですが、現在、ここには97軒の簡易宿泊所が密集するように立ち並んでいます。人口は約6400人、急速な少子・高齢化が進み、町の様子も「日雇労働者の街」から高齢者や何らかの福祉的な援助を必要とする人達が定着し、「生活する街」へと様変わりしています。
<寿地区の初期形成>
江戸時代初期のこの辺り一帯は、周辺の小高い丘を境とした釣鐘形の砂州の内海でした。品川から神奈川、そして保土ケ谷、戸塚に至る東海道からも山海をもって隔たるこの地が、今日のように変ぼうしてきた過程には、江戸から明治にかけての大規模な埋め立てがその礎となっています。
まず、寛文年間に吉田新田(1656〜67)が江戸の商人によって造成され、次いで文化年間に横浜新田(1808〜18)が、そして、嘉永年間に三河国出身の商人によって太田屋新田(1848〜53)が造成されました。また、明治に入って鉄道用地の確保で野毛浦が埋め立てられ、さらに吉田新田の沼地の埋め立てと続き、やがて今日の中区関内・関外地区の地形がほぼ完成されたといわれています。この関内と関外という名のいわれは、江戸時代末期の横浜開港の際に、東海道から横浜道を通って開港場へ至る陸路の入ロである吉田橋に居留外国人保護のための警備の関門が設けられ、その吉田橋関門の内側と外側を区別した名残で、その後長く使われてきました。そして、今日の寿地区は、この関外地区にあって、吉田新田の沼地埋立地(「埋地7ケ町」)の内にあります。埋地7ケ町は、県の官有地から貸付地として急速に市街地化し、周囲をめぐる運河から水上運送に有利な材木や各種の問屋が生まれました。また、港の後背地として輸出物関係者が集まる地域としても大いに発展し、2度にわたる大火や1923年の関東大震災にも見事な復興を遂げてきましたが、昭和20年の横浜大空襲と戦後のアメリカ軍による強制接収(1945〜53)によって、その後違った道を歩むことになりました。
<寿簡宿街の形成>
アメリカ進駐軍の軍用地として接収されていた埋地地区も、昭和28年に接収が解除され返還されましたが、戦時・戦後の長期間にわたって市民生活が途絶したことから、寿町や松影町など一部地域は、先の居住者が四散し、組織的な復興がままならない状態にありました。一方、進駐軍の接収を免れた野毛や桜木町周辺では、横浜港や駐留軍で働く労働者が多数集まり、バラック建ての飲食店や闇市などが出現して盛況を呈していました。特に、昭和25年に始まった朝鮮戦争以降は、軍需輸送の基地と化した横浜港の荷役労働の需要がさらに高まり、全国から労働者が仕事を求めて集まって来ました。桜木町駅に近い野毛には、横浜公共職業安定所と日雇労働者に仕事を斡旋する柳橋寄場があり、多数の手配師が青空市場を形成していました。そして、急増した労働者は、宿泊施設が少ないために屋外生活をする者も多く、大岡川の河口には、廃船のはしけを改造した「水上ホテル」が誕生するほどでした。
昭和28年の接収解除と接収地の返還時期は、まさにそうした状況の折りでもありました。長期間にわたって疎開を余儀なくされていた返還地の地権者は、復興の立ち遅れた寿町や松影町などの土地を売りに出し、やがて昭和31年に、最初の簡易宿泊所「ことぶき荘」(豊荘の前身)が寿地区に誕生しました。昭和32年に横浜公共職業安定所が桜木町から寿町に移転すると、にわかにこの周辺が日雇労働者の溜まり場となって、桜木町や野毛から日雇労働者が集まるようになりました。そして、この地域には、これらの人々のための簡易宿泊所が次々と建てられました。いわゆる「簡宿街」の誕生です。その後、簡易宿泊所は、寿町、松影町、三吉町、長者町、扇町にかけて、昭和34年に64軒余となり、38年に80軒余、48年に89軒と増えて今日に至っています。
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